服好きな大学生の僕の手記。

「きっと、その人は今村夏子さんのピクニックを読んでも何も感じない人だと思うよ!」日記(1月)

『花束みたいな恋をした』

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の感想を書きます。おもしろかったです。

この映画を見る前の印象は何となく”サブカルな人達の恋愛”だったんですけど、映画の主人公たちは全くそんな事は無く、どちらかというと何となく世間的なイメージ上の”サブカル”という言葉に惹かれてしまった、どこまでもありふれた何物にもなれなかった若者たちの恋愛という映画でした。馬鹿にしてはないです。

めちゃくちゃ尖った人間が出てくるわけでもなく、才能溢れる若者が出てくるわけでもない。麦と絹は多少サブカルっぽい物に憧れてしまったが、どれも突き詰めて夢中になれるわけでもない、統計学上人間なのです。音楽の感想はエモいだし、映画の感想は号泣しただし、洋服の感想は可愛いなのです。個人的に主演の2人が自分の役に共感していない事がこの映画の本質だと思います。

でも、だからこそ『花束みたいな恋をした』は多くの人の共感を集める事ができる。まぁ僕は共感を集めることが映画の価値ではないと思いますが、この映画に関しては特に”共感できるか”という事に重きをおいて制作されているのではないかと思います。それだけとてもリアルに男女の恋愛が展開されていきます。

「きっと、その人は今村夏子さんのピクニックを読んでも何も感じない人だと思うよ!」

僕は映画の前半が結構好きで、押井守がきっかけで出会ったことも、カラオケできのこ帝国を歌って帰りに缶ビールを買って帰る事も、ガスタンクの映像を二人で観る事も、信号待ちでキスする事も、自分たちがサブカルチャーで特別な出会いをしたと信じ切っている二人が良い。

この世界には才能で殴ってくるライバルも出てこないし、はてなブログでネチネチ言ってくる僕のような人間もいない。恋愛なんてこれで良いんだよ、外野がいちいちうるせぇんだよ。恋愛は祈りであり信仰なので片耳でイヤホンしても良いのです。藤原基央がキレても良い。麦と絹がサブカルだと思えば二人の間ではそれが事実なのだ。

 

 

 

しかし浮かれていられるのもつかの間、いつまでも酔っていられるはずもなく後半は資本主義が二人に襲い掛かります。怖いね資本主義。

特に菅田将暉演じる麦が徐々に社会に心が破壊されていき、社会性を手に入れていく一方で感性を捨てていく描写がとてもリアルでこの映画で一番好きです。感性なんて社会の前では何の役にも立ちません。一銭にもならないのです。彼が何時間もかけて描いた絵は1000円ぽっちにしかならない。これでは生活できない。こういう時直観するんですよね。自分は叶わないんだって。

そうして彼は好きな小説家の新作を読まなくなり、感動した舞台の記憶を忘れ、ゴールデンカムイも7巻で止まり、簡単に消費できるスマホゲームしか、パズドラしかやらなくなるのです。

「私はやりたくない事したくない!ちゃんと楽しく生きたいよ!!」

そしてそんな麦との考え方や価値観が一致しなくなってきている事は自覚しているが、受動的故に何となく惰性で付き合ってしまう絹。わざわざ固有名詞を出してくる所も相まってリアルすぎる。ラーメンブログまだやってる?

男でもこういう経験がある人はいるのではないでしょうか。センスが良く少し憧れていた自分の彼女がバンドを聴くのを辞め、ネイルのお金を削って貯金をし、イケメンアーティストにしか興味を示さなくなり、Twitterのいいね欄が自分への長文の言い訳で埋め尽くされるような。そんな感じです。全部労働が悪いんです。

サブカルへの憧れなんて結局呪いのようなもので、それを仕事に消化できるまでになれない人にとっては自分を苦しませ続けるだけの枷にしかならない。

僕の友人達は就職する時にいつも「ごめんな」と謝ってきます。「何が?」と毎回思うのですがたぶん僕にではなく、自分自身を裏切ったからこそ、夢を捨てたからこそ過去の自分に謝っているのではないでしょうか。大丈夫、社会性はある方が正しいんだよ、社会ではだけど。

では、人間が簡単に感性を捨てられるかといえば、そんな事もなく一度呪われた人間は死ぬまで呪われつづけるのです。それならいっそ、諦める事を諦めてみるのも一つの選択肢ではないでしょうか。

花束とまではいかなくとも僕はそれが好きです。