『セントエルモの炎』
さて、
広い海での生死を分けた航海、荒れ狂う波の中、船乗り達は霧の中に炎を見る。
彼らはその炎を目印に目的地を目指すが、実際にはそんなものは彼らの心の中にしか存在せず、他の者には何も見えない。
船乗りの伝承での「セントエルモの炎」とは、自らの”意思”の象徴である。
人間が心の炎を消さない限り必ず目的地へたどり着けるのであれば、自分にとってのセントエルモの炎とはなんなのか。
そう…それは……
『しゅごキャラ!』
「なりたいようになればいいじゃん しゅごキャラがついてるよ
やりたいようにやればいいじゃん なんだってできるよ」
最近は『しゅごキャラ!』にハマっていて、第1期から順序よく見ていっているのですが、これがすごく面白い。
2000年代にやっていた女児向けアニメで、主人公の雛森あむは、ある日不思議なたまごと出会い、たまごの中からはしゅごキャラと呼ばれる"なりたい自分"を具現化した存在が生まれる。
しゅごキャラ!の力を借りて、みんなの夢(可能性のたまご)を同級生たちのガーディアンと共に守っていく。
『しゅごキャラ!』に出てくるしゅごキャラとは"なりたい自分"の化身であり、自分の可能性のひとつなんですよね。
11話ではあむちゃんが憧れていた”王子”こと辺里唯世(ほとりただせ)君が主人公のあむちゃんが”キャラ成り”した姿アミュレット・ハートに恋をするのですが、主人公の成りたい可能性の姿である変身後に恋をするというのが良いですよね。このあたりから物語に深みが増していった気がします。
さらに注目したいのが無印23話「リメイクハニー!なりたい自分!」です。
この回ではそれまで敵キャラとして登場していた二階堂先生の過去がフューチャーされます。いわゆる2クール目のラスボスのような存在ですね。
二階堂先生に、なぜ”可能性の妖精”であるしゅごキャラが視えていたのか。(普通の人には視えない)
時折みせる罪悪感に苛まれる描写の意味とは。
この作品において大人たちは自分の可能性を諦めてしまった存在として描かれていくのか。
2クール「しゅごキャラ!」と向き合ってきた視聴者たちの疑問に、満点の回答をしてくれる回であり変わる事の怖さ、変われる事の強さ、変わらぬ思いの美しさというテーマ性を掘り下げた神回だと個人的には思います。
人間は大切な事でも忘れていく生き物です。
何度でも原点を感じられる作品を見返すというのは、”なりたい自分”をもう一度再考するきっかけになるのではないでしょうか。知らんけど
『文学フリマ』
文学フリマに行ってきました。(作家ではない一般の人が自主的に本を作って売るフリマイベント)
ところで、今の時代は本を作ったり文を書く事が誰でも手軽に出来る時代だと思うのですが、これは良い事だと思うでしょうか。
例えば、不用意に情報を発信する事で自分が伝えたかった意図とは全く違う形で情報が伝わったり、プライバシーが脅かされたり、虚飾に塗れたSNSを見て精神を病んだり。
そういうデメリットをひっくるめても文章を手軽に書けるというのは、良い事だと僕は思います。
むしろ、文章を通しての自己理解と内省、感情というボールを壁打ちしまくる一人ラリーだけでこそ救われる人間たちは確実にいて、そんな孤独な戦士に与えられた理想郷こそがインターネットだと言いたいぐらいです。
いやそんな事ないな、嘘です。インターネットはクソです。好きな作家が言っていましたが、インターネットは嫌なニュースを嫌なニュースで塗りつぶす最悪の油絵です。今すぐ辞めましょう。
すみません。文フリの話でしたね。
僕が他人の文章を読む一番の理由は、”他人の頭の中にある未知を知りたいから”です。
しかし、これはインターネットと相性が悪い。インターネットは今や社会から外れた無法場ではなく社会の一部となり、社会性は高まれば高まるほど、感情の機微を均されて、負の感情は飲み込むしかなくなる。
”誰も傷つかない為なら誰かの楽しみを奪って良い”という考えが許容されてしまうのは集団活動では仕方のない事であり、別に悪い事ではないと思うが、全員同じ道徳を強要されるような圧力を感じてしまう。
その結果、例えばだけど他人を傷つけないよう的を得ていない言葉をだけを見続けて、自分の短所をはき違えるというような認知のズレが発生してしまうような気がする。それは健康的な心理状態と言えるのだろうか。
そういう認知のズレが怖い。グルーミングをし合っていても、はたして僕は幸せになれるのだろうかというような漠然とした不安が襲ってくる。
そこで、お金を払わないと見れないローカル的な文章に自分の気づきをぶつけるのです。
わざわざお金を払ってくれるようなファンが自分のナイーブを理由に水を差したりするのはあまり考えられないので、物書きも好きな事を自由に書ける。
買った本の感想は別の記事で書こうと思いますが(身バレしたくないので書かないかもしれない)そういうローカル文章で書かれている事こそ道徳や社会性や炎上対策や好感度調整の無い、素材本来の味を生かした料理であり、感情の機微を繊細に表現していると僕は信じているのです。