『ポケットモンスター・リーフグリーン』

をやっていました。みんなもやったか?
大人ってホントゲームやらなくなる。
親から頂いたかけがえのない時間を平日50時間費やし働き、やっとの思いでたどり着いた休日を二日ぐらい献上して「よし、やれそうかも」と思ってようやくスタートラインに立つ。それがゲームだ。しかしこれも、体力を残していた場合によるが。
だからおじさんやおばさんは、自分”を”作ったゲームばかりやっている。
自分"が"ではない。自分"を"構成した思い出のゲームという話だ。
思い出や当時の空気を目いっぱい吸い込むことで、人生を構成した部品を、もう一度取り外して眺めるみたいな遊び方だ。
レトロゲームって懐かしいんじゃない。自分がどんな人間だったかを観察する装置なんだと思う。それだと足を踏み出さなくてよい分、いくらか気軽に出来るというものだ。
ところで......
子供の頃は気にも留めなかったことが、大人になってから急に引っかかることは往々としてある。お前だよ。クチバシティの木

邪魔すぎ
何をしているんだ行政は。市民から苦情とか来ないのか。
というか秘伝マシンで木を切る文化をやめろ。造園業者を呼べ。
...........
すみません、セキチクシティの方が凶悪でしたわ。
インフラを10歳児に委託する大人たち。未整備林を整備しろ。造園業者を呼べ。ストライクを数匹雇え。

パーティ構成
基本パーティはこんな感じ。なぜ全く育っていないニャースがいるのかわかりませんが、おそらくもっとも育てたケンタロスを外してレベル上げをおこなっているところですね。
このケンタロスが今回の旅で一番働いていた。

あばれる
あばれる
あばれる
またあばれる
もはや技ではない。勤務形態だよ。

チャンピオンロードも四天王もライバルも全部あばれて終わったし。ライバルなんか可哀想だった。本編で何度も切磋琢磨してきて、
「はッはッ うれしいぜ! ライバルの おまえが よわいと はりあい ないからな! おれは ずかん あつめ ながら かんぺきな ポケモンを さがした! いろんな タイプの ポケモンに かち まくる ような コンビネーションを さがした!」
と”お互い全力を出し尽くそうぜ”みたいな空気を出していたのもつかの間。
幼馴染の選択してきたポケモンは牛。しかも大暴れしている。チャンピオンの部屋でわき目もふらず、恐らく目も白目だけになっていたと思う。怖い。ポケモン勝負とかじゃない。彼は職場に突然あばれ牛を放たれた被害者である。
その後はサイクリングロードを何往復もして同じ顔の暴走族を倒しまくってるうちにレジェンズアルセウスがやりたくなったので、ここらで終わりとした。お願い。ルビー・サファイア・エメラルドも出してくれ。
『ケーキの切れない非行少年たち』

ところで、「ケーキの切れない非行少年たち」を読んだことがありますでしょうか。
僕が住んでた地方では、中学生ぐらいまで不良が生き残っていました。
『クローズ』や『特攻の拓』に感化されたかのような所謂ヤンキーなんて、都会の感覚では時代遅れの産物だと思うかもしれませんね。
でも事実、僕の住む治安の悪い地域では確実に存在していましたし、EXILE、格闘家、高校生ラップ選手権、海外のギャングスタなど憧れの対象を細分化していきながら、彼らは根強く生き残っています。
もちろんその中で本当の非行に走る人はごく一部ではありますが、つまり自分たちは非行少年の一部をもって育ってきたとも言えますね。
だから当時、学生だった僕は、そういう人たちとそれなりに同じ空間で過ごしてきました。
自分は優しい人間だと言い暴力をする人
相手の言葉の意図より、自分が感じたことだけを信じる人。
被害妄想が暴走する人。
「ケーキの切れない非行少年たち」で言及されていた非行少年の特徴として、まさに、他社への認知が弱く、相手の背景を創造できない故に、変に被害感を増大させてしまうという話が出ていましたが、
正にそういう人とは、うまく共存しつつも、どこか関わりたくない。深く関わるとろくなことにならない。というような感覚でいました。
しかし、「ケーキの切れない非行少年たち」を読み終わった後だから言えますが、この本は決して”こういう特徴の人間に気を付けよう”などという本ではありません。
むしろ逆で、彼らの認知の弱さや、犯罪心理、なぜ殺人を犯した非行少年が、「僕はやさしい人間です」と答える理由を、彼らの視点から考え共感するための本ですらあると考えています。
僕の地元の不良と一括りにしましたが、彼らの中身もピンキリで、
賢いけど家庭環境が悪いヤツ、学校に馴染めず素行不良になったヤツ、たまたま周りの友人がグレて流されたヤツ、モテる為に虚勢張るヤツ、悪い所も良い所もある。つまりは「不良」というラベルだけでは、誰一人説明できない普通の中学生でした。
価値観の違う相手の内在的な論理もできるだけ好意的に解釈し、その人間が、その論理を獲得するに至った背景を考慮できる人間を私は”優しい人間”だと思いますし、そうありたいとも思います。






































