『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』
という小説が好きです。
「生きることに関係なさそうな些末なことについては悩まない、関わらない。そんな一銭のお金にもならないことについて悩めるのは恵まれている奴の特権だ。」という考えを持つリアリストな主人公が、自分のことを人魚だと言い張る虚言癖な転校生と出会う物語です。
「彼女はさしずめ、あれだね。”砂糖菓子の弾丸”だね」
「へ?」
「なぎさが撃ちたいのは実弾だろう?世の中にコミットする、直接的な力、実態のある力だ。だけどその子がのべつまくなし撃っているのは、空想的弾丸だ」
金持ちで容姿端麗で、そしてどうしようもなく無垢な転校生に初めはイラつきを感じていた主人公が、あるきっかけでその子が、”貧乏家庭で兄を養わなくてはならない自分”、よりも、もっと不幸な境遇にある人間だと気づいてしまうシーンが好きです。
「こんなやつに自分の気持ちはわからない」と張っていた意地の防波堤が一気に崩れ初めて「この子は友達だ」と実感し、しかしそれと同時にふと湧き上がる自己嫌悪。
主人公は、表では転校生のことを思っていた振りをし、彼女は自らの歪んだ自意識を自覚してしまう。他人が自分と同じ不幸な人間であるということに、親近感とどこか感じた喜び。それを自覚してしまう罪悪感、彼女は13歳で、未成年で、つまるところまだ子どもなのだ。
傍観者であることを選んだ主人公の兄のキャラクターも大好きなんですよね。
「なにかがあって、きっかけは単純で、でもどうしようもなくて、それで、人は変わる。バランスが崩れて、悪い意味で”本当の自分”になっちゃうんだ」
そんな兄を、そして藻屑や主人公のなぎさを、また海野雅愛を頭がおかしいと罵る担任の教師が、正義感故に誰の想いにも気づいてやれないリアリティも好き。
この小説で『砂糖菓子の弾丸』として扱われる、虚構への祈り、空想への希望、存在しない愛。そんなものには何の力もない。僕がこの小説を好きな理由の一つです。
フィクションは人を救える、そんな前向きで理想的な話ではない。もっと現実的で、生々しく、文字通り、砂糖菓子の弾丸なんて実弾の前ではなんとも無力なのである。それでも彼女は自分が人魚であると思い込む。渚の父親が幸せになったと嘘を吐き続ける。痣あんて海の汚染の生だと言い張る。”ストックホルム症候群”だ。
いや、僕はそんな簡単な話ではないと思っている。これはただむごさをアピールする端的な話ではない。可哀そうなヒロインに同情する話ではない。というかむしろ、愛がある分もっと悲痛な話なのだ。
「こんな人生、ほんとじゃないんだ」
「え?」
「きっと全部、誰かの噓なんだ。だから平気、きっと全部、悪い噓」
主人公が「恵まれたやつの特権」だと思っていたその少女の感性は、その甘い弾丸は、あまりにもむごく、そしてもろかった。それはこの世界への必死の反抗だったのでしょうか。それとも唯一の生への執着だったのでしょうか。
文のテンション感がおかしいですね。
『アオイトリ』
具体的に言うとネタバレになってしまうので言えないですが、特にあるヒロインの「ボーイミーツガールはどこまでも王道なんです」というセリフがお気に入りです。
恋愛がここまで残酷で美しいのは、「みんなで手をつないで分け合えばいいじゃない」という詭弁に介在する余地がないからだと思っています。
そこには人間の本質が現れる、独占欲を否定しないことこそが恋愛だと思っています。
しかし、一切の噓の余白が存在しない、偽ることを良しとしない恋愛はそれはそれで窮屈だと思っています。アオイトリの本編挿入歌に『二人だけのカーテンコール』という曲があるんですけど、僕はこの曲が大好きです。
「観客は要らない、台本もない。貴方の前では偽るヒロインでいたいから 許してね」
この歌詞一つにヒロインの美学がすべて詰まっている。ボーイミーツガールに観客も台本もいらない。
それでも、貴方の前では偽らせて、という健気さ。
本を読む理由が「人生に役立てるため」という人がいますが、僕は本は成長するためではなく、ただ好きだから読むものだと思っています。
それは、人生にとってはこれっぽっちも役に立たないことです。見識が広がる、考えがより聡明になる。僕はそんなものはただ単なる理論武装のようなものだと考えています。そんな脆い弾丸では何も撃ちぬくことはできない。
それでも、そんな砂糖菓子のように甘い祈りにしがみついて何とか生きているような人間もいるのです。