リモートワークが終わり、電車で毎日アホみたいに出勤しています。電車で早く座りたい想いが強すぎるあまり、池袋駅で降りる人間を見極める事の出来る異能(スキル)、池自我袋(ポンバーアイデンティフィケーション)を習得しました。
最近読んだ本を紹介します。
『普通という異常』
ADHD、ASD、アスペルガー、統合失調症、これらの診断結果を聞いて皆様は何を思い浮かべるでしょうか。
現代の若者ならば(なんだか病気でやばい人だ。近づかない方が良い)と受け入れられず排斥するような人は少なく、精神的疾患はあくまで個性の延長戦程度であり、「大した問題ではない」「特徴の一つだ」と、このような考え方の方が多いのではないでしょうか。
むしろ、”自称精神疾患”や”悲劇のヒロイン症候群”という言葉に代表されるように、配慮される側に周ろうとする人間への不信感、「免罪符にするな」「本当に悩んでいる人に失礼」「ステータスだと思っている人間が多いせいで医師に診断された自分が生きにくい」そういう一種の嫌悪を持っている方も多い印象ですね。(そもそも医師の診断と自称の境界線すら、曖昧でグラデーションなものですが)
この本ではそういう考えの是非ではなく、タイトル通り人間のある特性を「病」とするならば、健常もまた病の一つではないだろうか。という切り口で精神病理学の教授である兼本先生が書いた人間の精神病理の理解を深める為のヒントがいくつも見つかる本である。
と、長々と説明を書いたけどこれ別に要らなかったな。
この本で僕が好きだった内容は『あざとくて何が悪いの?』という番組に関連されるような、現代的な健常者に起こりえる実体と価値の逆転という現象ですね。
現代では”可愛くなりたい”というよりむしろ、”可愛くありたい”という事を大事にしている人の方が多いという事です。
主観的な可愛さよりも、客観的な価値、あくまでみんなから可愛いと思われていれば、自分の認識できる実体が違くとも、それは可愛いと言えるのだ。という事です。
またこういった価値観をディズニーランドにも例えています。
ボードリヤールはディズニーの事を、「実在という虚構をリバースショットで再生しようとする抑止の仕掛け」「錯綜したシミュラークルのあらゆる次元を表す完璧なモデル」と称しています。何が言いたいんだこのジジイと思った事でしょう。僕も思いました。
実在という虚構をリバースショットで再生。つまりボードリヤールは現実というものを自分の脳が作り出した虚構の世界ととらえているわけです。これはわかるでしょう。
我々の脳が誰でも完全に同じものだという確信が無い限り、他人と自分が見ている景色は同じだとは限らない。そういう意味では、本当の意味で”実体”を私たちが認識する事は不可能だと言えるでしょう。
これをリバースショットで再生する。つまり、ディズニーという初めから虚構の世界を作ることは、それ自体実在が確実に存在しているという事にも出来るのだという事です。子どもが信じている限りは、サンタクロースは存在しているのです。
また、ボードリヤールはそれを揶揄しているわけですね。若者は虚構に夢を見すぎて、馬鹿になっているという昭和的説教臭さが出た言い回しという訳です。
僕は『めだかボックス』に出てくる妥協のマッドサイエンティスト、鶴喰梟の台詞が好きです。
『すごいこと』より『すごい空気』が幅を利かせ
『楽しい』より『楽しそう』がぶいぶい言わせる
天才よりも天才のフリがうまい奴が評価される世の中だ
時代が求めているんだよ
合成着色料を。
世の中は複雑になりすぎているので、実際の事実を理解する事よりも、マジョリティの価値観こそ真実だとする。統計的な価値こそ自分の価値、これを作者は”普通という異常”としているわけですね。
他人の目を気にすることなく、集団から浮いてしまう人間の辛さは色んな本で言及されていると思いますが、他者のまなざしによってしか自分の存在を確信できないというのは、それはそれでたしかに辛いよね。自分という存在の輪郭が曖昧というのは、不安と寂しさの温床となりえる。
ADHDやASDを簡単に自称してしまう人が多いというのも、この”普通”という病の仕業なのかもしれませんね♪
『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』
YouTuberのにゃんたこさんのエッセイ集です。
今でこそ、こういうVLOGとは違う日記感覚の動画や、雑記の垂れ流し動画は増えましたが、にゃんたこさんはこういうブームの先駆けのような存在である。
まぁブームの先駆けとかパイオニアとかそういう事はどうでもいいか。
にゃんたこの事を知ったのは自分が好きだった(今はネットから姿を消した)バンドマンにツイキャスで「おすすめのTwitterアカウントあります?」って聞いた時に、彼女のアカウントがおすすめされた事です。
当時人生で初めて一人暮らしをしたという事もあり、”孤独”にどうやって向き合っていくかについてよく考えていました。
それまでの僕の人生は友人関係という強固な支えのおかげで、孤独について向き合う必要なんて無かったのです。(まぁ実際この時期もよく友達を家に読んではデュエルマスターズしていたんですが)
それでもこの時の僕は本当に孤独だった。
大学ではファッションではなく本物のぼっちで、高校時代の友達は、県外に行ったり別の大学に行ったりした事で、距離を置かれる事も多くなり、遊びに誘われる頻度も露骨に減っていた。LINEでじゃれ合いの連絡をいれるも煙たがられ、まぁなんていうか、とにかく毎日寂しく、誰かと話したかった。
そうして僕はネットに傾倒し、それまでそこまで詳しい訳では無かったアニメを視聴しだし、一人暮らしもマイナスに作用し、周りと同調し歩幅を合わせる交流が大切な田舎で、一人浮世離れを始めていた。
自分の人生の中でも二番目の”第二次SNS依存症”となり、Instagramで現実の知り合いは誰もいないアカウントで関東住みと嘘をつき、毎日自分の服装と洋服へのこだわりをアップし、Twitterの裏アカウントではネットで知り合ったフォロワー達と毎日のようにウケ狙いツイートに明け暮れていました。一日十時間以上当たり前にスマホをいじっていた。
このブログ自体もその時に作った産物のなごりです。
そんな時に「にゃんたこ」の動画を見てしまったら、そりゃーハマるのも仕方ない。
「本を読まないということは、その人が孤独
でないといふ証拠である」
は確か太宰治の言葉でしたか。本格的に本を読み始めたのもこの頃からですね。
前置きが長くなってしまいましたが、僕が『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』で一番好きな文は、「幽☆遊☆白書のチケット」ですね。これはマンガアプリで一日一回チャージされるチケットの話である。
理想を否定されても、存在を馬鹿にされても、私には一日一回チャージされる幽☆遊☆白書のチケットがある。どんなに小さくても、私の人生にはいつだって明日に向かうための生きがいがある。
”生活”だ......
にゃんたこさんの文の良い所は、正直なところですね。
自分を良く見せようともせず、かといって強い言葉を使おうともしない。このバランス感が自分にとって心地良いんですよね。
こういう等身大で人生を楽しもうとする事を、なんども思い出させてくれるコンテンツに囲まれて生きたいものですね。