服好きな大学生の僕の手記。

「森の動物たちが騒がしいな...嫌な予感がする」(日記6月)

ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』

ゼルダの伝説の新作をプレイしました。本当にすごいゲームです。

これを読んでいるあなたが、オープンワールドのゲームは苦手だという自覚がもしあるなら、そんな重い荷物は置いてティアキンを始めた方が良いでしょう。

さて、勇者というものにあなたはどのようなイメージがわくでしょうか。

やはり男の子なら一度は勇者に憧れ、姫を救うRPGの愉悦に浸った事があるでしょう。仲間たちと姫を救うために奔走し、巨悪に立ち向かう。これが現代における勇者の最もスタンダードな見解でしょう。

しかし、年齢のせいなのか時代のせいなのか、”生産性”という資本主義の呪いに侵された人間たちは、いつの日か自分に流れる勇者の血を忘れてしまいます。そんな僕らがゼルダの伝説なんていう王道に惹かれるのは、むしろ必然であると言えるでしょう。

キャラクターもとても良く、特にリト族のチューリがとてもかわいい。

ポケモンもそうだったのですが、僕はこういうシステムとしてシンプルに面白いゲームのシナリオが、ゲーム的なメタ要素を守りながら上手く進行していくための工夫というものに、とてもリスペクトを感じてしまうタイプです。

モンスターハンターポケモン以来に100時間以上プレイしたゲームになりました。

『変身』

カフカの『変身』を読みました。

簡単にあらすじを紹介すると、ある朝、巨大な毒虫になっていることに気づいた主人公グレゴール・ザムザが仕事に行かず、家族とも言葉が通じなくなり、家族から徐々に嫌悪され疎ましく思われるようになっていくという内容です。人間からバケモノに変わるから『変身』なんですね。

カフカの本を初めて読んだのですが、あまりに唐突に毒虫になるので何か仕掛けがあると思い、

「例えば主観的な内容で描かれる自称は全て噓だったという事が後半に判明する叙述トリックがあり、実際は仕事が嫌になった主人公が自分の事を毒虫だと思いこんでいる精神的な病気にかかっていた」とか、

「穏やかで温厚で家族を支えていた主人公というのがミスリードであり、実はとても苛烈で暴力的な主人公が神からの天罰で毒虫になってしまった事が後々家族などの第三者視点から判明する。」

などそういう事を疑りながら読み進めていたのですが、特にそんな事もなくただただグレゴール・ザムザという男の悲劇を描いていたのが印象的な作品でした。救いがなさすぎる。

なので読了した直後は正直に言うとあまり充実感は無く「なんだこれ、特に意味も理由もなく悲しいだけの話だ」という感想だったのですが、カフカという小説家の事を調べていくうちに、彼らしい作品だという事や、彼の感覚という物が鮮明化されていき、今では結構好きになってきました。

彼の作品はシュルレアリスムの要素を含んでおり、自らではコントロールできない現実の非論理的な不条理への悲観には共鳴できるところがあります。彼はとても優しく、それ故に生きる力が無さすぎる。

彼の有名な話に、他人の持っているステッキに書かれた「私はあらゆる困難を打ち砕く」という言葉を確認した後、自分のステッキには「あらゆる困難が私を打ち砕く」と刻まれている。などという言葉を残したという話があります。

カフカにとって歪な社会で当然のように行使される不可解なルールは、非現実的で夢幻的な理不尽であったのでしょう。

ちなみに彼は自分の作品を世に公開する予定はなく、それこそ友人の裏切りというグロテスクな理不尽によって実存主義の先駆として良いか悪いか脚光を浴びる事となるのですが、その秘密主義的な望みも空しく最愛の恋人への手紙まで公開されているのですが、その内容が余りにメンヘラすぎる。

少し返信が来ないだけで何度も返信を催促し、文頭は「こんな駄文を送ってしまい申し訳ない」から始まる。現代ならツイッターで嫌な女に晒されています。

そう考えると、彼の苦悩がテクノロジーによって増幅される現代に生まれなかった事は、救いだったとも言えますね。

カフカは的思考は今の若者っぽい雰囲気だし。

ネタバレとはなってしまいますが、主人恋であるグレゴール・ザムザは結局後半、自分が一番信じていて、毒虫になる前には生活費を全て捧げていた家族に殺される訳ですが、それも今となったはカフカの作品として相応エンド気がしてきました。

 

 

 

 

 

youtu.be機動戦士ガンダム 水星の魔女』

シャディク・ゼネリ

水星の魔女の最終回を観ました。

水星の魔女の最終回は賛否両論あり、特に「俺たちの戦いはこれからだ」ENDだと思っているので、ガンダムシリーズとして評価した場合、不完全燃焼感があった事は多少は否めないと思います。

しかし僕は、シャディク・ゼネリという男の結末に創造の余白が与えられて終わったという事は雑に良かったと思っている。水星の魔女はあくまで子ども達の物語であり、スレッタが母親から決別するという事が重要な一つのファクターだと言えます。

そういう親と子をテーマにした作品であるからこそ、誰よりもいち早く自分の物語を始めたシャディク・ゼネリが好き。

令和の花より団子と呼ばれていた水星の魔女で、ラスボスキャラだと思っていたハーレム御曹司のシャディクが、誰より一途で片思いな熱血男だというギャップ萌えがシンプルに好きすぎる。

あなたもシャディ目(シャディク目的)でガンダムを見てみませんか。

アーレア・ヤクタ・エスト(賽は投げられた)。

「強いて言うなら私はただ阿良々木くんと話すのが楽しいだけ」(日記5月)

『バキ』

こう見るとスペックでかいな

シンクロニシティ________________________」

「その日を境に世界中のグリセリンが次々と結晶化を開始めたというのじゃが... ...」

アニメ版のバキ「最凶死刑囚」と「大擂台賽編」を観ました。

バキと言えばシリーズが進むごとにワクワク感が減っていくと言われる事が多いですが、死刑囚編冒頭のワクワク感は作中随一だと個人的には思います。

アニメ的な演出を言えば特にスペック登場時の危険度マックスなBGMが良かった。

スペックは危険度が高くて良いんですよね。ガラの悪いおっさんしか出てこないバキワールドの中でも話の通じなさそう感が特に高い。スペックが銃口を自分の頬に向けて乱発した時のイカれてる感。

そんな奴が花山という古参キャラに卑怯な手を使っても太刀打ちできないというのもカタルシスを感じる。彼は敗北を知れたのでしょうか。

「まだやるかい?」

とはいえ僕は一番、ドイルが好きです。

街で偶然に出会ってしまった烈とドイル。バーで仲良くゆっくりした後、ボッコボコに殴り合った烈海王とドイルが、それでも互いに強気者として認め合っているという描写が丁寧に描かれる。

その後、気絶した烈を負けてぼろぼろのはずのドイルが1日中守り続けた事をききっかけに、二人に謎の友情が芽生えるシーンにこそバキ特有のシリアスとシュールさのバランスの神髄が詰まっていると思うからだ。

ちなみに全然書く必要ないけど、嫌いなシーンは渋川のジジイが

「………バキさんよ……アンタ負けたぞい」

とか言って、共同戦線張ってた刃牙に責任を全て擦り付けるところです。(渋川がダサい珍しいシーン)

読んだ本あれこれ

僕は帯が好きじゃないです


先月は結構本を読んだと思います。電車の中では常に本を読んでいたし、家に帰ってからも週2ぐらいで本を読んでいました。中でも『ゴーストの条件』がかなり骨太でしたね。

『ゴーストの条件』好きなんです。この本に登場するゴーストとはつまりキャラクターの事なのですが、自分なりの解釈ではキャラクターをキャラクターたらしめるもの。という言い方が一番近い意味なような気がします。それでも全然不完全ですが。

ミッキー、初音ミク、キリスト、天皇まで、私たちが人ではなく何か信仰を持ってそれに接する時に生まれる何か、ゴーストとは何を意味するのか。

著者が哲学的な側面から難しい言葉を使って説明するので理解するのが非常に困難な本です。でも、この本に関してはその簡単には伝わらない複雑な文脈こそが魅力なわけですが。

学生時代にも読んだことあって今回二度目の読了となるんですけど、正直3割ぐらいしか理解できていません。おらぁ馬鹿だからよ。

まぁいつかこの本をもっと自分なりの考え方に落とし込めるようになるまで人生のうちに何度も繰り返し読もうと思っている本のうちの一冊ですね。

『殺人出産』に関しては、村田沙耶香の短編集って感じです。

中でも殺人出産に出てくる「産刑」(法律を犯した人間を無理やり出産させる刑)という言葉が出てきたのが衝撃でしたね。

たしかに倫理を全部無視したら少子化を食い止める手段として合理的と言えますが、主題の殺人出産制度より個人的に印象が残っています。世の中のモラル意識に究極自覚的になった人間にしかできない発想だよこれは。怖い。でもおもしろい。

高尾山

山は良い。最初に山作ったやつ、キャンプとか好きだったんかな。

それにしても景色が”山”すぎてウケるな。

久しぶりに中学校の頃の友達と山登りの約束をしました。

新宿駅で待ち合わせしたのですが、新宿駅には細長すぎるコンビニがあって良かった。テトリスの━みたいな形で隙間がなく、ドリンクを取る為にも人とすれ違わなければいけない。場所の活用法が気持ちいいほどにパワー。

それはそれとして、友達がやってきました。学生時代は平均的なBMIをしていた彼は、太陽スフィンクスのラインみたいなラガーマン体系に変わっていました。人間は変わっていく。時の流れは無情やで。

「俺が金属バットで殴ってもダメージ無さそうだな」と言ってみましたが、さすがにダメージはうけるようです。そうは見えませんが。山登りでカロリーを少しでも使う事を約束し、いざ京王線から高尾に向かう。

GANTZの敵星人もいました。上手く人間社会に偽装しています。

僕は普段虚飾と欺瞞に塗れたSNSという名の牢獄に閉じ込められた生活をしている為、飾り立ての質素な美しい森を見ると心が浄化されますね。

たまにはインターネットを飛び出して仲の良い友達と、『ワールドトリガー』好きな隊自慢し合いをしながら山に登ってみよう。

 

「いつか、嘘が本当になることを願って…」(日記4月)

『友情を哲学する』

 

僕は昔から友人関係で人格を形成してきた人間である。

BUMP OF CHICKENを好きになったのも、友達のウォークマンを借りたからだし、軽音楽部に入ったのも友達に誘われてからだし、アニメにハマったのは友達が気軽にあそんでくれなくなったからです。

友情は本当に大切だと思います。人間関係にはどんなものにも友情が付きまとうと思っている。恋人だって愛情だけではないし、上司にだって家族だって友情は成立するものだと思っています。フーコーだってそういってます。

この本ではマンガの登場人物の友情感を哲学者の考える友情論と照らし合わせています。例えばニーチェならナルトとサスケ、アリストテレスならキングダムの信と漂など。僕が特に好きだったのは、ハンターハンターのキルアとゴンの関係をカント的な友情論で語っている所です。

キメラアント編で王宮に突入した後、ピトーを前に冷静さを失ったゴンがキルアに対して、

「キルアはいいよね。関係ないから」

と冷たく言い放つゴンに対してのキルアの感情を表した分が特によくて、

「キルアは硬直し、心が引き裂かれる。あるいは、いっその事ごめんと謝ってしまいたかったかもしれない。それでも激情に駆られたゴンの自立性を取り戻す為に、彼は言い放つ」

ここが良い。

カント的な友情とは、自立性を重んじるという友情の形なのですが、正にキルアとゴンにピッタリです。

彼らの友情は仲良しこよしではなく、人によってはドライに見えるほどです。でも、ゴンがゴンであるために、また、キルアがキルアである為に二人はお互いを尊重し合う。これは愛だけではなく、尊敬を含んだ友情なのです。

アリストテレス的な友情感は友人を「もう一人の自分」と捉えている訳ですが、カントは違う。カントは友人を自律的他者と捉えており、その他者を観測する事でより自分という存在を認識し合える、他者への興味を深める事を前提とした考えなのです。

『推しの子 第1話-Mother and Children-』※ネタバレあり

 

もう世間で話題になりまくっているので今更自分が書くような内容は無いですが、やっぱり推しの子は面白いですね。

アニメ一話は”この作品の魅力を伝えたい”という気概に満ちていた。

僕は特に終盤のオタクに刺されるシーンが好きです。アイドルのアイがファンを欺いて子どもを作り、報復の為に殺されてしまうというシーンなのですが、彼女の台詞が良い。

「心の底から愛してるって言ってみたくて、愛してるって嘘を振りまいてきた。私なんてもともと無責任で、純粋じゃないし、ずるくて汚いし、人を愛するってよく分からないから」
「私は代わりに、みんなが喜んでくれるような綺麗な嘘をついてきた」

「いつか、嘘が本当になることを願って…頑張って努力して、全力で嘘をついてたよ、私にとって嘘は愛…私なりのやり方で、愛を伝えてたつもりだよ」

「君達のことを愛せてたかは分からないけど、愛したいと思いながら愛の歌を歌ってたよ」
「いつかそれが、本当になることを願って」

「今だって、君のこと愛したいって思ってる」

推しの子の魅力は、サスペンス、転生、アイドル、スポコンなどただのアイドルアニメとは違うジャンルごちゃまぜな所や、二転三転する魅力的な展開かとは思いますが、僕はとにかくアニメ一話のこのシーンが好きで、星野アイというキャラクターが特に素晴らしいと思っている。

 

rurinoblog.hatenadiary.com

僕がまだ学生時代にアイドルについての記事を書いたことがあります。(もう少ししたら非公開にします。)

今見ると、かなり尖っているというか感情的に書いたな~とは思いますが、これは当時読んでいたコラムの影響になります。本当に申し訳ありません。

でも考え方は当時とあまり変わってないなとも思います。

 

推しの子の星野アイは、例え裏でどんなに性格が悪かろうが無責任だろうがファンの理想とかけ離れた事をしていようが、ファンの前では決してそれを見せないアイドルとしての美学を持っています。

なぜならアイの理想のアイドルとは、ファンの期待を裏切らない人間だからです。

彼女がファンに見せる言動に本音はありません。

たしかにそれは嘘であり、しかし同時に、彼女がファンに与えられる唯一の愛でもあるのです。

 

僕は嘘、偽物、贋作が、誰かの中では本物以上の美しさを持つのが大好きです。

Fate/stay night-Unlimited Blade Works-」での主人公 衛宮士郎の台詞を想起しますね。 

「お前は正しい…俺の想いは偽物だ。けど、美しいと感じたんだ。」

「自分のことより他人が大切なんてのは偽善だと分かっている。それでも…それでもそう生きられたのならどんなにいいだろうと憧れた。」

「俺の人生が紛い物でも、誰もが幸せであって欲しいという願いは美しいもののはずだ。」

自分が贋作だとわかっていながら、自分の作り上げたものは理想だけの綺麗ごとわかっていながら、それでもそうなろうと信じる願いだけは本物だと信じているのです。

どれだけ摩耗しようと、何度間違っているとなじられようと、幾度も無意味な事だと理解しようと、結局は何も変わらない。あの時抱いた理想の輝きは変わらない。
自分の理想は歪んでいるのだと、とうの昔に既に気づいていても、歩いてきた道を正しいと信じる事で、あらゆる悲劇を無意味なものにしない為に、それでもユメを追いかける。

その生き様には星野アイに通じるところがあります。

この世には真実よりも大切な何かがきっとある。

星野アイはの言葉は確かに嘘なのかもしれない。オタク達が見た夢は虚構の産物なのかもしれない。

それでも彼女のファンの事を心の底から愛したいという想いは、誰も侵す事の出来ない本物だから、彼女は愛してると嘘をつき続けるのです。

いつかそれが本当になる事を願って。

「嘘はとびきりの愛なんだよ? 」 

youtu.be

「彼女の瞳は嘘を見抜く目ではなく、嘘をつく人間の居心地を悪くさせる、そんな透明な目だった」(日記3月)

リモートワークが終わり、電車で毎日アホみたいに出勤しています。電車で早く座りたい想いが強すぎるあまり、池袋駅で降りる人間を見極める事の出来る異能(スキル)、池自我袋(ポンバーアイデンティフィケーション)を習得しました。

最近読んだ本を紹介します。

『普通という異常』

 

 

ADHDASDアスペルガー統合失調症、これらの診断結果を聞いて皆様は何を思い浮かべるでしょうか。

現代の若者ならば(なんだか病気でやばい人だ。近づかない方が良い)と受け入れられず排斥するような人は少なく、精神的疾患はあくまで個性の延長戦程度であり、「大した問題ではない」「特徴の一つだ」と、このような考え方の方が多いのではないでしょうか。

むしろ、”自称精神疾患”や”悲劇のヒロイン症候群”という言葉に代表されるように、配慮される側に周ろうとする人間への不信感、「免罪符にするな」「本当に悩んでいる人に失礼」「ステータスだと思っている人間が多いせいで医師に診断された自分が生きにくい」そういう一種の嫌悪を持っている方も多い印象ですね。(そもそも医師の診断と自称の境界線すら、曖昧でグラデーションなものですが)

この本ではそういう考えの是非ではなく、タイトル通り人間のある特性を「病」とするならば、健常もまた病の一つではないだろうか。という切り口で精神病理学の教授である兼本先生が書いた人間の精神病理の理解を深める為のヒントがいくつも見つかる本である。

 

と、長々と説明を書いたけどこれ別に要らなかったな。

この本で僕が好きだった内容は『あざとくて何が悪いの?』という番組に関連されるような、現代的な健常者に起こりえる実体と価値の逆転という現象ですね。

現代では”可愛くなりたい”というよりむしろ、”可愛くありたい”という事を大事にしている人の方が多いという事です。

主観的な可愛さよりも、客観的な価値、あくまでみんなから可愛いと思われていれば、自分の認識できる実体が違くとも、それは可愛いと言えるのだ。という事です。

またこういった価値観をディズニーランドにも例えています。

ボードリヤールはディズニーの事を、「実在という虚構をリバースショットで再生しようとする抑止の仕掛け」「錯綜したシミュラークルのあらゆる次元を表す完璧なモデル」と称しています。何が言いたいんだこのジジイと思った事でしょう。僕も思いました。

実在という虚構をリバースショットで再生。つまりボードリヤールは現実というものを自分の脳が作り出した虚構の世界ととらえているわけです。これはわかるでしょう。

我々の脳が誰でも完全に同じものだという確信が無い限り、他人と自分が見ている景色は同じだとは限らない。そういう意味では、本当の意味で”実体”を私たちが認識する事は不可能だと言えるでしょう。

これをリバースショットで再生する。つまり、ディズニーという初めから虚構の世界を作ることは、それ自体実在が確実に存在しているという事にも出来るのだという事です。子どもが信じている限りは、サンタクロースは存在しているのです。

また、ボードリヤールはそれを揶揄しているわけですね。若者は虚構に夢を見すぎて、馬鹿になっているという昭和的説教臭さが出た言い回しという訳です。

僕は『めだかボックス』に出てくる妥協のマッドサイエンティスト鶴喰梟の台詞が好きです。

『すごいこと』より『すごい空気』が幅を利かせ

『楽しい』より『楽しそう』がぶいぶい言わせる

天才よりも天才のフリがうまい奴が評価される世の中だ

時代が求めているんだよ

合成着色料を。

世の中は複雑になりすぎているので、実際の事実を理解する事よりも、マジョリティの価値観こそ真実だとする。統計的な価値こそ自分の価値、これを作者は”普通という異常”としているわけですね。

他人の目を気にすることなく、集団から浮いてしまう人間の辛さは色んな本で言及されていると思いますが、他者のまなざしによってしか自分の存在を確信できないというのは、それはそれでたしかに辛いよね。自分という存在の輪郭が曖昧というのは、不安と寂しさの温床となりえる。

ADHDASDを簡単に自称してしまう人が多いというのも、この”普通”という病の仕業なのかもしれませんね♪

『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』

YouTuberのにゃんたこさんのエッセイ集です。

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今でこそ、こういうVLOGとは違う日記感覚の動画や、雑記の垂れ流し動画は増えましたが、にゃんたこさんはこういうブームの先駆けのような存在である。

まぁブームの先駆けとかパイオニアとかそういう事はどうでもいいか。

にゃんたこの事を知ったのは自分が好きだった(今はネットから姿を消した)バンドマンにツイキャスで「おすすめのTwitterアカウントあります?」って聞いた時に、彼女のアカウントがおすすめされた事です。

当時人生で初めて一人暮らしをしたという事もあり、”孤独”にどうやって向き合っていくかについてよく考えていました。

それまでの僕の人生は友人関係という強固な支えのおかげで、孤独について向き合う必要なんて無かったのです。(まぁ実際この時期もよく友達を家に読んではデュエルマスターズしていたんですが)

それでもこの時の僕は本当に孤独だった。

大学ではファッションではなく本物のぼっちで、高校時代の友達は、県外に行ったり別の大学に行ったりした事で、距離を置かれる事も多くなり、遊びに誘われる頻度も露骨に減っていた。LINEでじゃれ合いの連絡をいれるも煙たがられ、まぁなんていうか、とにかく毎日寂しく、誰かと話したかった。

そうして僕はネットに傾倒し、それまでそこまで詳しい訳では無かったアニメを視聴しだし、一人暮らしもマイナスに作用し、周りと同調し歩幅を合わせる交流が大切な田舎で、一人浮世離れを始めていた。

自分の人生の中でも二番目の”第二次SNS依存症”となり、Instagramで現実の知り合いは誰もいないアカウントで関東住みと嘘をつき、毎日自分の服装と洋服へのこだわりをアップし、Twitterの裏アカウントではネットで知り合ったフォロワー達と毎日のようにウケ狙いツイートに明け暮れていました。一日十時間以上当たり前にスマホをいじっていた。

このブログ自体もその時に作った産物のなごりです。

そんな時に「にゃんたこ」の動画を見てしまったら、そりゃーハマるのも仕方ない。

「本を読まないということは、その人が孤独

でないといふ証拠である」

は確か太宰治の言葉でしたか。本格的に本を読み始めたのもこの頃からですね。

前置きが長くなってしまいましたが、僕が『世界は救えないけど豚の角煮は作れる』で一番好きな文は、「幽☆遊☆白書のチケット」ですね。これはマンガアプリで一日一回チャージされるチケットの話である。

理想を否定されても、存在を馬鹿にされても、私には一日一回チャージされる幽☆遊☆白書のチケットがある。どんなに小さくても、私の人生にはいつだって明日に向かうための生きがいがある。

”生活”だ......

にゃんたこさんの文の良い所は、正直なところですね。

自分を良く見せようともせず、かといって強い言葉を使おうともしない。このバランス感が自分にとって心地良いんですよね。

こういう等身大で人生を楽しもうとする事を、なんども思い出させてくれるコンテンツに囲まれて生きたいものですね。

 

 

「もう遅いよ。もう知っちゃったんだから、オレもゴンも」(日記2月)

『蛙化現象と【かげきしょうじょ!!】八話』

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”蛙化現象”という言葉がYouTubeでの炎上で話題になりましたね。

どういう炎上だ?と気になった皆さん、検索しなくて良いです。異性嫌悪を煽るタイプの嫌なゴシップだから炎上しただけです。インターネットでは、異性を叩く話題が地獄の業火のように燃え続けているんだ。関われば関わるほど不幸になります。

それはそれとして、他人に理想を投影してしまうのは人間なら誰しも一度はあると思います。

『かげきしょうじょ‼』というアニメでは「紅華歌劇団」(宝塚歌劇団みたいな感じ)に入ることを目標としたキャラクター達の希望や葛藤、日々の奮闘が描かれます。

第八幕では、主要キャラクターの一人である星野薫の過去、一夏の恋が描かれます。

この回が本当に良い。

彼女のおばあちゃんは人気の春組娘役トップスターだったこともあり、おばあちゃんと比べられながらも、何度も受験に失敗し続け、受験ギリギリの18歳になった薫。周りからも奇異の目にさらされています。「紅華」に入学する難しさを誰よりも知っている為、それをまだ言葉にはできない。

そんな中、おばあちゃんのお見舞いの為に乗る病院までのバス停で、自分と似た境遇を持つ”メジャーリーガーの弟”としてしか見られていない野球部の辻くんと偶然出会います。

自分たちの夢や悩みを語り合いながら徐々に関係が深まる二人。

自分より早く合格した後輩に見せしめにあい、今年が最後の受験だという事に焦る薫。

おばあちゃんが退院し、バス停に向かう理由もなくなる。さらに退院したおばあちゃんから「いつでも道を変えても良い、やりたい事をやりなさい」という言葉をかけられ、薫は紅華に入るという夢の為に捧げてきた人生で、初めて異性と夏祭りに行きます。

薫「もしかして元気ない?」

辻「最近はずっと調子よかったんだけど、やっぱり試合に出るチャンスないっぽくて、野球やってて意味あんのかなーって。子どもの頃から兄貴と一緒に野球やってきて、兄貴に才能があったから同じような事求められて、その期待に応えなきゃって、当たり前のように野球部入って、そうやって無理し続けた甲斐はあったのかなって。そう思う事ってあるだろ?」

 

薫「... …」

 

薫「なんでみんな、そんな事言うの。違うよ、私は違う。プレッシャーに押しつぶされそうになるけど、私は自分の意志で決めたの!無理なんて一ミリもしてない!これは私が選んだ道よ。私がなりたいの!最後まで絶対諦めない、私は、なにがなんでも紅華に入学するの!」

彼女は弱い心をはねのける様に、決意を込めた声で言う薫。そう、ここで彼女は悩みを全て打ち明けてきた辻くんに同調しない。

蛙化現象とは少し違いますが、彼女は彼を通して自分自身の弱さに気付く。人間なら誰しもが持っている感情、自分にも他人にも厳しく、同期の中でも人一倍プロ意識の高い星野薫が見せた、ひと夏の、ほんの少しの綻び。

決して傷の舐め合いがしたかったわけではない。

薫が惹かれたのは兄貴と比べられる事なんて意に介さず夢に向かって努力する野球少年であり、それは自分の理想の姿でもあったのです。

才能が無いのはわかっている、ここでやめれば楽になる事もわかっている、それでも”自分で決めた道だから”。彼女は初めて自分の夢を言葉にするのです。

『かげきしょうじょ‼』は原作もとても素晴らしいのですが、とにかくアニメのこの回が大好きなんですよね。夢に向かって努力する事は、何よりも孤独で、だからこそ美しい。

文句なしにオススメできるアニメです。

「私バカだ、一瞬でも普通のJKが羨ましいと思ってしまった」

HUNTER×HUNTER

『HUNTER×HUNTER』冨樫義博

ゼブラックというマンガアプリで無料になっていたので久しぶりにハンターハンターを全巻読みました。

僕は一番キメラアント編が好きですが、ここではあえてヨークシンの話をしたいと思います。最近ジャンプ本誌でも幻影旅団が深く掘り下げられていましたからね。

ヨークシン編での幻影旅団と言えば、アウトローの頂点として欲しい物があれば暴力で奪っていく自分勝手極まりない輩たち、という描かれ方をしていました。邪魔になるならヤクザも殺すし、罪のない人間の被害も厭わない。というより身内意外に大して興味がない。

あいつらは力を持ちすぎたヤンキーなんですよね。ヤクザや悪の組織というより、海賊とかに近い。一応曲がりなりにも組織という形をとっているけど、組織化して動く事なんてしないし、内部のルールもガバガバで最低限しかない。社会からあぶれた力の強い者がつるんでいるだけ。こういう奴らが一番タチが悪い。

でもだからこそパクノダは組織より情を優先してクロロを助けようとしたし、ノブナガは団長のルールを無視して鎖野郎を始末しようとする。

蜘蛛に”役割”はあっても、上下関係はない。

ヤクザって結局”組織”で、どうしても社会性が必要になってくるものなんですよ。だからこそヒンリギさんが本物のアウトローである旅団にカリスマ性を感じて箱推しになるのも必然的な流れだと思います。

しかしその見方も、過去編でより深みが加えられます。

過去編では絶望と不条理が蔓延する流星街という街で、クロロという優しい少年が悪党として生きることになるまでの過程がむごったらしく描かれていきます。綺麗事だけでは救われない命があること、蜘蛛という名前は悪党が罠にかかるまで巣を張り待ち続ける意味だったのですね。

「我々は何ものも拒まないだから我々から何も奪うな」

が、法の支配から逃れた無法者達の宣戦布告ではなく、不条理の傍らで生きた人々の悲痛な叫びだったという事を理解させられる過去編でした。

ちなみに僕は、クロロが一番好きです。

 『自分の為だけに生きるのは きっといつか限界がくる』

この台詞は、『呪術廻戦』二十巻で烏鷺亨子に対して乙骨が言ったセリフです。

これに対して烏鷺は「黙れ!”誰かの為に生きろ”、”何者にも成る必要はない”、そうやって嘯くのは、いつだって何者かに成った者だ!!」と一蹴します。姉貴、かっこいいっス。

良いですよね。一度目の人生で他者の為に生き、他者の為に死んだ。

そんな事実を後悔している烏鷺は、千年前の呪術師なので圧倒的な自己である両面宿儺を知っている。

正に、宿儺のように”何者か”になる為に受肉した烏鷺亨子の一番の精神的地雷を初対面で無自覚に、的確に踏みぬく乙骨がすごい。

ところで皆さんは、自分の為だけに生きるのは限界がくると思いますか?

僕は思っている。

どんなに成功した人間でも最終的には自分の周りの人間の為に何かをしたくなるものです。人は私利私欲の為だけには生きられない。

なぜなら寂しいからである。

孤独に勝てる人間はいません。Tier1。トップメタ。優先度最強。

人がなぜこんなにも他者を求めてしまうのか、これは神が人間が自分勝手に生きない為に作った枷、”呪い”のようなものだと考えるしかないのか?少なくとも自分の中ではそれが一番おさまりが良い。

しかし、孤独が嫌だから誰かの為に生きるというのはある種、エゴとも言えます。

誰かの為に行った行為のはずが、見返りを求めてしまう事だってあし、寂しさを紛らわすために尽くしたのに、寂しさを埋めてくれないのなら何の意味もない。

言い換えるならば、自分の為に、誰かを助ける。そう捉えることもできますよね。

つまり誰かの為に生きる事だって限界があるわけで、そういう意味では人は、”自分の為だけ”にしか生きられないとも言えちゃうか。あーあ。

僕はエゴに自覚的な人間が好きです。なんでもそうですが、無自覚な人間が一番怖い。当たり前を当たり前だと信じることは才能だとも思いますが、幼少期からインターネットの海を彷徨って猜疑心を植え付けられた僕のような人間は、孤独を恐れながらも、人間に期待する事も出来ない、どっちつかずのピエロとして生きていくことしか出来ないのです。

「そういう意味では、確かに宇宙に希望はあったのだ」(日記1月)

「1年が過ぎるのは早いなー」

なんて思うようになったのは、いつからだっただろうか。

少なくとも僕は、ここ5年くらいはそんな事考えもしなかったです。

しかし今年は違うぞ。ぱっと気づいたら1月、「1年が過ぎるのは早いなー」が自然に出てきてもおかしくないです。なぜでしょうか、”老い”でしょうか。

いや違うんです。多分楽しいから。というより苦しくないからという方が正確か。

自分が完璧に適応できる環境に身を置いているから、1年がとても短く感じる。もちろん良い事だけでなく、酸いも甘いも全自動で過ぎていく日々には、不安が付きまとうものですが。

『田舎のネズミと都会のネズミ』

僕は田舎と言えるほど田舎ではないですが、地方都市から上京したという経歴があります。地元の友達と通話していると必ずと言ってよいほど、「ずっと地元で働くのか。地元から離れて、一度違う環境に身を置いてみるべきなのか」という悩みの話題が絶対出ます。

ここでAIさんの回答を見てみましょう。

AIに聞いてみました

その通りですね。AIの言う事が全てです。

結局コンプレックスがあるのかどうなのか、抱えられるかって話ですよね。

(ああ…若いうちから都会に住んでいればな)と卑屈になった未来の自分が想像できてしまうのであれば、一度地元を離れるのも良いのではないでしょうか。

僕の場合、「このままじゃダメだ」という感覚が常に自分の中で渦巻いているタイプで、なんだかんだこれはこれで幸せ。という感覚を手に入れた事がこれまで一度も無い。

なので、地元を離れた今の状況に納得しているかと言えばそうでもなく、死ぬまで自分の納得を探し出す呪いを背負って生きていきます。

つまりスティール・ボール・ランなんですね。『「納得」は全てに優先するぜッ!! でないとオレは「前」へ進めねえッ!』って事です。

※ちなみに僕の地元は自家用車必須で維持費かかるし、なぜか全国的に見ても賃金が低いというイジメをうけているので、それが普通に嫌だったのもあるが。

ガンダムシリーズ

初代の風格

ファーストガンダム」と「Zガンダム」を全部観ました。本当に大好きです。
ガンダムってあまりどういう物語か上手く理解していなかったんですが、戦争、差別、愛など激重のテーマを扱った作品なんですね。

最新作の水星の魔女でも、こういうテーマが前面に出てくると、ネットでは「ガンダムらしくなってきた」というような意見が多数を占めており、一貫して描かれているという事がわかりますね。

「こいつ…動くぞ」「悲しいけどこれ戦争なのよね」

「シャアだ…赤い彗星だ」「きれいな目をしているのね」

「当たらなければどうということは無い」

ザクとは違うのだよ、ザクとは!」

「坊やだからさ」

ガンダムの好きな言葉を羅列させるだけ心地良い。

ファーストから、Zガンダムまではキャラクターの情緒不安定がすぎる。曲がりなりにも軍人としてアンガーマネジメントぐらい出来ているのかと思いきや、病んだりキレたり衝動的に行動しすぎて、作戦が無茶苦茶になってしまう描写が多すぎる。

でもそれが良い。

ガンダムついてはもっと詳しくなってもう一度詳しく書きたいですね。

『子どもが好きと言えない』

僕は子ども好きではありません。

こういう事を発言すると、嫌な奴だと思われるのであまり言わない方が良いです。(実際僕は嫌な奴ですが)ただ好きかどうかは子どもへの優しさとはなんの関係も無いという事も同時に思っており、自分は子どもは好きではないが、その辺の大人よりよっぽど子どもの気持ちをわかっている。という自負もあります。

僕は子どもの頃からずっと思っていた事があり、それは「大人は俺らの事を舐めている」です。ネットがここまで普及した時代ですから、子どもと大人の境界線はより曖昧になっています。

一昨年に僕の兄がシングルマザーの方と結婚し、突然小学生の姪ができたのですが、同じアニメを見ているという事もあり実家で一緒に話した時、一回りも離れているのに会話が滞りなくできると思ったことがあります。またVtuberの配信を楽しんでいると、その子の実年齢が中学生だった事もあります。

なにが言いたいかというと、子どもが好きと公言する人の中には一種のステレオタイプ的な庇護欲を持ち合わせている場合が多いのではないかという事です。

もちろん全員がそうとは言いませんが、子ども、大人と安易にカテゴライズ化して”子どもらしさ”を押し付けられるような考えが大嫌いだったんですね。確かに大人は子どもを守るべきですが、それは個人の機微ではなく、社会システムとして当たり前の事で、強い言葉を使うと当たり前でなければならない事です。

これは僕が恩師と呼べるような関係性の深い大人にあまり出逢わなかった事も原因だと思いますが。自分の場合、過去の自分や同じ境遇のひねくれた子ども達が少しでも報われる為に、口が裂けても子ども可愛くて大好きなんて安易に言いたくない。祈りのようなものです。

可愛さは見出すものであり、押し付けるものではない。そういう意味でいうと、別に子どもが好きじゃないのではなく、好きな子どもいれば、嫌いな奴もいるという事です。ほんとは普通に可愛い子どもは好きです。

しかし、クソガキだからと言って、大人という優位性を行使してタメ口で威圧するような奴にはなりたくないですね。

ポケットモンスターSV』

これは友達と撮った1枚

去年時間を費やしたゲームランキングが作れば、11月発売であるにも関わらず、間違いなくトップ3に入るゲームがポケモンの最新作です。1位はエルデンリング2位はモンスターハンターサンブレイクですかね。

前作のソード・シールドも良かったんですが、それにも増して今作はシナリオが良かった。新作発売日にはネットの話題は毎回ポケモン一色になりますが、今作は対戦、競技としてのポケモンや、育成シミュレーションだけではなく、シナリオやキャラクターにもよりスポットが当たっていましたね。

保健室のミモザ先生

僕は保健室のギャルこと、ミモザ先生が好きです。

彼女は養護教諭になる夢があったが、試験に落ち続けたので保健師になったという過去がある。良いよね。

サボりにやってくる生徒達、男子はミモザ先生の包容力を目的として、女子はギャルとして可愛く生きるミモザ先生に憧れて。

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でも、僕だけは知っています。

ミモザ先生が割りとズボラなこと。休みの日はパジャマのままコンビニに行っちゃうこと。高校生の時から同じチーク使っていること。酔ったら自分が可愛く写ったプリクラを見せてくること。Poketuberの動画で休日を潰し、後ろめたさを感じてしまっていること。

本当は養護教諭にだって…まだなりたいってこと!

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主人公に触発されるミモザ先生

キモくなっちゃってすみません。

この後ミモザ先生は主人公の冒険に触発され見事に養護教諭試験に合格します。

人は何歳からだって挑戦していいんだという事をミモザ先生から学ぶ小学生もいることでしょう。

「 デンジ君 ホントはね 」(日記11月)

もう12月でしたね。

書く事が多いので、この記事では自分が読んだ本やアニメなどの事を書こうと思います。

カードキャプターさくら

実は「カードキャプターさくら」を見た事が無かったのでとりあえずクロウカード編だけ見ました。とにかく映像が可愛い。

僕はアニメの感想をまとめる日記兼ブログをやっていますから、色々と考察したりウケ狙いしたりオタクっぽい楽しみ方をしていますが、アニメとは本来絵のキャラクター達が何か動いてて可愛い。ぐらいのハードルの低さで観てもいいのです。ストーリーを全く理解していなくても良い。

昨今はSNS等のメディアによってオタク達のユーモアがフォロワー数によって可視化されたことで、深い考察や面白い解釈などがオタク達のワナビーとなっています。

僕もそういうのは好きだし、もっと作品を楽しみたい人が最終的にたどり着く場所だと思っています。でも、そういうものに憧れて”人から尊敬される為”に何かを消費する行為は、継続するのが苦しいです。最近はそういう事を考えています。

CCさくらの話に戻りますね。映像美というか、色が可愛い。キャラクターの表情が可愛い。もうそれだけで見ていられる。

主人公さくらのコスチュームはこの黒髪の友達(知世ちゃん)が作っているのですが、それが毎回可愛い。というか結構長いアニメなのに私服が毎回違うし、知世ちゃんが可愛い。品行方正、才色兼備、おだやかな物腰、実家が金持ち、ブルべ冬、時に子どもらしい。何より、カードキャプターとなったさくらに一切の嫉妬も抱かず、さくらの幸せを取り繕いもなく願っている、真の優しさを持つ博愛の女の子です。

僕にも女子小学生時代に知世ちゃんに憧れていた過去がある気がしてきました。

『すずめの戸締り』

『すずめの戸締まり』場面カット|写真17

やっぱり新海誠監督は優しい人なんだなと感じる映画だった。

良くも悪くも人間の善性を信じていないとこんな映画描けないよ。すごい。

僕は批評というものをあまりしたくないのですが、(というより良い悪いの二元論で何かを語りたくないし、めんどうな人に絡まれたくない)もう少しキャラクターを深く掘り下げてほしいな、とは少し思ったかな。たぶん詰め詰めで時間が足りなかったのだと思うけど。

相変わらず空の描写がとても綺麗で、東京にミミズが落ちそうになる時は、神秘的なBGMと相まってぐっときた。それだけでもう映画館代以上の価値はありました。

新海作品の敵というか起こりえる問題は全て大災害とか、超自然的なものが多いですが、今回は意図的に3.11を彷彿させる描写が多くありましたね。

そして自然の化身としてのダイジンが良い。作中すずめがダイジンを好きになったり嫌いになったり、ダイジンに対しての感情が大きく揺れ動くのですが、ダイジンの方は無邪気に無垢に一切の濁りや卑しさもなく、すずめに接する。すずめが怒っている事もわかっていない。

人々がコントロールできないもの、自然に対して、神秘を感じたり、恐怖を感じたりする人間らしさを感じて良い。

最後の方、過去にすずめが逢ったことのある女の人は、扉をくぐった未来の自分であるという事が判明しますが、それもとても配慮がある。3.11を意識した作品に死者が出てきてああだこうだと解釈を垂れるのではなく、あくまで死者は話さない。語るのは未来の自分であり、『すずめの戸締り』は、生き残った僕たちの為の映画だと感じますよね。

改めて国民的な監督になったなと感じる。嬉しくもあり、どこか寂しい。新海誠が好きな人の中には、新海誠特有の良い意味での気持ち悪さが漂白されたようで嫌だと感じている方もいるようですね。

僕は映画館で友達と見たのですが、一緒にいた友達が「野田洋次郎は、すぐ相対性理論とか言うからよくないw」と半分冗談で言ったので「俺は逆に野田洋次郎が未だに相対性理論とか言ってるのはすごいと思った」と返しました。

アラフォーになっても世界と女の子を天秤にかけようとする気持ち悪さこそ、彼の良さだよ。という意味で言ったのですが、後日その話を別のRADWIMPSが好きな友達に話したら、

「いや、野田洋次郎は丸くなったよ。昔なら”恋は革命でも焦燥でも天変地異でもなくて君だった”なんて言わなかった。革命も焦燥も天変地異もすべて恋だと思っていたよ。俺はもっと暴れまわっている野田を観たい」

と言っていて、色んな意見があるな~と感心しました。

チェンソーマン』

うっはwwwwwwwwwwwwアホやこいつらwwwwwwwwww

というテンションで観てました。こういう昔のニコニコ動画のようなアホやwwwwwみたいなユーモアを忘れたくないですよね。

僕の感想だとアニメは原作よりキャラ愛が強めな尺をしているなと感じました。おそらく作り手のタツキリスペクトがすごいからなのかなと。そのせいで原作の藤本タツキ先生のキャラへの愛着の無さみたいなのが際立って面白いけど。

ちなみに僕はレゼ編が一番好きなのですが、そこは映画でやるのではないかと思っています。そうなると嬉しいな。EDで一番好きなのは『first death』ですかね今の所。『刃渡り2億センチ』も良かったけど。特に映像が良かった。

チェンソーマンは普通にグロ描写が多用されてるんですけど、不快じゃないんですよね。そこが良い。監督もスプラッタにしすぎないという事にこだわったみたいですし。

なぜかサブカル人気が強く芸大の斜に構えたやつが好きなアニメみたいに評価されがちなチェンソーマンですが、別に教養もなしにからっぽで観れるアニメなので、もっとお気軽にみんなに見て欲しいです。

 

「でも…この挑戦を受けなきゃ…なんだか男でいられないような気がするんだ!ゴメンね 後でいっぱい おれを怒ってもいいよ…!」(日記10月)

ONE PIECE FILM RED

※ネタバレあり

僕はやばい女(社会的にやばいと言われる事が多い女)が好きです。

僕が映画館に行く前から友人に「お前ウタ好きそ〜」と言われていたのですが、逆張りする事もなく順当に好きになりました。

ワンピースの世界は大航海時代ですが、登場人物の大半が海賊で、つまり悪人なので同時に大暴力時代でもあります。もちろんそれが悪いとかそういう意味ではないです。海賊が横行し権力者が腐敗した世界で身を守るのは力ですから。

しかし、そんな中海賊ではなく純粋な歌手として登場したウタの悪魔の身が一切暴力的ではないという一貫さが好きなんですね。大航海時代に虐げられてきた弱い人々の代弁者のウタがそういう世界と対照的に描かれている。

あの血なまぐさい世界で海賊や暴力をやめて音楽をしようと訴え続けるのが、”音楽家キャラクター”の姿勢として正しすぎる。そして自由を求める人々にとって洗脳や催眠は、時に暴力より悲惨な結果になり得るというのもまた良い。そう考えるとONE PIECE世界で自由の象徴、ルフィと綺麗に対比になっていると思います。

ちなみにアニメ版特別編では、ルフィとウタの幼少期が描かれたんですけど、これがとても良い。複雑な伏線があるわけではない。派手な戦闘もない。

ルフィとウタの何気ない日常が流れているだけなのですが、そのどこかノスタルジックな演出と二人の絶妙なやりとりに(オレって今ONE PIECE見てるんだっけ?ONE PIECEを見ていて、こんな感情になるなんて)と感傷し、困惑していました。

ドラゴンクエスト

ロトシリーズはⅢが一番面白い(なお11は含めない)

switch版で久しぶりにドラゴンクエストの1~3をクリアしました。

僕のドラクエシリーズの思い出と言ったら、小学生の頃にクラスメイトのオタク系の女の子がドラゴンクエスト9すれ違い通信で地図を交換したいと言ってきた事ですね。

先生にバレないかビクビクしながらカセットを学校に持っていき、昼休みに二人、同級生に見られないようにこっそり図書館ですれ違い通信しようとしたら、彼女のサブキャラクターが自分の名前に設定された事が判明したんですよね。それが嬉しくて。あはは...

全部嘘です。

ドラクエシリーズといえばテレビ版『ドラゴンクエストダイの大冒険』が最終回を迎えましたね。終盤におけるポップの成長ぶりには何度も感動してしまいました。

ポップがとにかく良いんですよね。勇者ではない凡人と宿命づけられたポップが、嫉妬や羨望を乗り越えダイの一番の理解者であり親友となっていく。人間臭い。自分の身を犠牲にしてメガンテを打つ時も覚悟が決まった顔で華々しく散ろうとするのではなく、直前まで涙を流して死を恐れる。

ダイとポップに与えられた”アバンのしるし”勇者であるダイが純真で、魔導師のポップが勇気というのが良いんですよね。

終盤の、力こそ正義と語るバーンを力で圧倒しながら、「こんなものが こんなものが 正義であってたまるかっ!!!」というあのシーンはダイの良さが全部詰まっていて良い。

Engage Kiss

前季『リコリス・リコイル』の影に隠れた名作になりましたね。

皆さんは”都合の良い女”扱いされていても、顔の良いクソ男を好きでい続ける幸せを感じた事はあるでしょうか。僕はないです。

『Engege Kiss』では、そういう他人からは一切理解される事のない幸せが味わえます。とにかく戦うために悪魔とキスする事で記憶が奪われるという設定が良い。

前半はエチエチバディアニメとしてみていたはずが後半に辛すぎる展開が来てしまい、涙を流しました。

構成の方が着地点は『こういうのでいいんだよ。こういうので』を目指したと語っていましたが、まさにそういう感じで、シリアスな展開こそ多くありますが、最終評価としてはちょっとエッチなラブコメと評する事ができるような。そんな良アニメでした。

 

「もっとも暗い闇を抜けなければ、夜明けはやってこないのだから。」(日記9月ツー)

最近摂取したものについて書きます。

メイドインアビス

メイドインアビスの二期が始まっていたので、アニメ版で全部見ました。

特に映画版はきつすぎてその日1日のやる気が全部削がれて、ベッドの上でただただ放心することしかできなくなりました。

巨大な大穴『アビス』の縁に築かれた街、『オース』で暮らす探窟家見習いの少女・リコ。ある日、探窟中に孤児院の仲間の少年・ナットが巨大な蛇状の生物「ベニクチナワ」に襲われているところに遭遇する。とっさの機転で注意を逸らしたリコだったが、今度は自分がベニクチナワに襲われてしまう。絶体絶命のその瞬間、突然辺りが閃光と轟音に包まれて・・・。

メイドインアビスでは残酷でどうしようもない展開が多く起こります。それこそ作者に対してどうしてそんな非道い事が出来るんだと泣きつきたくなるような。

しかしそれでも、アビスを進み続けるリコ達の可愛さとロマンだけが唯一の読者の支えになる、僕がメイドインアビスを視聴するとき、ここは重要なファクターだと考えています。

どんなに苦しい展開や、汚い大人達が現れても、彼らアビスに挑戦する探窟家たちの根本には憧れとロマンがある。彼らが冒険する事になるアビスと呼ばれる大穴には、神秘的で残酷な原生生物が生息する地獄である。地獄に倫理観は通用しないのです。

それでも憧れは止められないと語るナナチも、ボンドルドのやり方は否定してもロマンには共鳴するリコも、生食い鬼畜ワズキャンも、彼らを突き動かすたった一つの衝動は未知への好奇心なのです。それが美しい。

美しさといえばベラフのセリフが好きです。

「美しいから美しいのではない。醜いから醜いのではない。」

「その通り 美しさとは目だ。いいか即物的な目ではない、眼差しと捉えよ。立場、身分、名誉、姿形、そして自信すらも美の本質ではない。

醜く爛れようが理不尽を前に倒れようが立ち上がることすら否定されようが、睨みつけ、慈しみ、憧れつづける。その眼差しこそが美しさの本質なのだ。」

たとえどんな事が起きようと、どんな形に成ろうと、憧れを止めなければ美しくいられるという彼の美学が本当に好きだ。キャラクターが美学を語るシーンだけを眺めていたいよ。

『邪神ちゃんドロップキック』

邪神ちゃんもついに3期まできてしまった。というか冷静に考えても上半身裸の女が当然として主人公してるの面白すぎる。

特にゆりねとぴのが好きです、僕は情緒不安定な女と偏屈なゴスロリ美少女が好きなので。

邪神ちゃんとゆりねの関係が良いですよね。邪神ちゃんはどうしようもないクズなのですが、実は作中でも人への理解力が高く他人の気持ちがわかるやつなのが憎めないですよね。まぁ本当にクズなので他人の気持ちを察した上で嫌な事してくるようなやつなんですが。本当にカスなので…

しかしそれをゆりねは戦闘力で確実に上にいくという事で解決している。彼女らの信頼関係をバイオレンスなギャグとともに楽しむこの時間がもうすぐ終わってしまうと考えるとかなり悲しいです。

『しろいろの街の、その骨の体温の』

しろいろの街の、その骨の体温の (朝日文庫) | 村田沙耶香 |本 | 通販 | Amazon

僕は、自分は結構性格が悪い発言をしがちだな。と思う事がよくあるんですけど、村田沙耶香先生に比べたら全然かわいいものだと思います。

「私は嫌いという言葉が好きなのかもしれなかった。この言葉を口にしていると、自分がどんどん鮮明になっていく気がする」

という主人公のセリフが好きです。

自分の地元が嫌いな主人公がそれを口に出す事で自分自身を、というより自分のなりたい姿をより明確化させる。他人と共感するためではなく、自分自身をより理解するために、自分の嫌いなものを理解する必要がある、と考える女子中学生のモラトリアムが良い。

この本では同級生の信子ちゃんという女の子が登場するのですが、主人公は彼女の事を、子どもっぽくて、群れることが好きで、自分の容姿に無関心な人だと見下しています。

「ね、信子ちゃんってこの街、好き?」

(信子ちゃんなら好きって言うだろうな)という期待を込めて質問する主人公。その後、この街がなんとなく好きと語る信子ちゃんに対して

「信子ちゃんは、やっぱ、そうだよね」

と得意げになる主人公が残酷すぎる。そして本当は見下されてる事を知っていて、それでも無知なふりをする信子ちゃんの精神も辛い。

あえて自分が見下しているような人とばかり友達になる事で、自分自身の正しさを認識しようとするような、そういう人間の非情な心理描写を描くのが本当に上手い。人間が見下している相手に嫌いなものを共有しない事は往々にしてあると思います。

結局主人公は、誰が下か、誰が上か。そんな事ばかり考えている時点で自分が大嫌いな町から抜け出せずにいます。

でもあるきっかけで大嫌いな町や勝手な優劣を生むヒエラルキーから解放される。その過程での主人公の考え方の変遷が繊細で綺麗です。

リコリス・リコイル』

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日本の治安を守る秘密のエージェント「リコリス」である井ノ上たきなは、ある事件をきっかけに喫茶「リコリコ」への転属が命じられる。超優秀なNo.1リコリス(?)の千束とバディを組み、DA復帰を目指し意気込むたきなだが、リコリコでの仕事はひとクセもふたクセもあり!?

出た出た。オタクはすぐアニメの美少女を戦わせる。少女たちの犠牲の上に穏やかな日常があるという世界観が好きだからだ。

↑正解

ただ僕はそういう社会構造の暗さではなく、主人公である井ノ上たきなと錦木千束との関係に全ての興味があり、それ以外はその関係性を深く鮮明に描写するためのスパイス程度のものだとしか思っていません。これは大人たちの視点での物語ではなく、あくまで二人の物語だと思うからです。

特に日常回の二人の掛け合いが心から楽しそうで良い。過酷な運命を背負っているはずの千束が、誰よりも人間臭く、泣いて笑って怒っている。その緩急がより彼女の可愛さを引き立てている。

まだ最終回は来てないのですが、物語が終盤になるにつれ二人の日常的なやり取りを見れないのがただきついですね。

どうかハッピーエンドであってくれ。

 

 

「耳を塞ぐと心も塞がるんだ。嫌な世界と触れ合わなくて済むからね。」(日記9月)

最近良かった曲(わちき)

僕は音楽ジャンルで言うとシューゲイザーや空間系のエフェクトが使われている曲が好きです。

夏が好き。でも根は暗い人間で、ここではないどこかへ行きたいという欲望を心のどこかで感じている。

そういう人が自分の美意識に沿ってそれを表現する。みたいな、そういうのが好きです。僕の場合はそういう事を考えながらこういう曲を聴いています。暗いね ♪

open.spotify.com『Stargaze Shelter』は順当に星宮ととから好きになりましたね。東京にはM3と呼ばれる音楽系の同人イベントがあるんですけど、Stargaze Shelterは多分参加すると思うし、前々から行きたいと思っていたんですよね。上京したことでそれが叶うことになり現地散財しようと思います。

関係ないですが、同居人がまったく示し合わせてなかったのに、そいつもこのアーティストが実は好きだという事が発覚してめちゃくちゃ盛り上がりました。

 open.spotify.com

ラブライブ声優でありながら、自分がやりたかった音楽のジャンルも諦めず作ったんだなと考えちゃう曲。楽曲の完成度がとても高く、ともりるらしさもきっちり感じとれてよかった。

楠木ともりは本当に”声が良い”と思っています。若手女性声優として着々と売れている理由には、ラブライブへの抜擢や、作曲もこなせる芸術的センス、安定感のある演技、色々あってもやっぱり声がずるいと思いますね。

自分が好きな音楽を、尊敬している声優さんがやってくれるの嬉しい。

open.spotify.com新しく出たアルバムは過去のリイシュー版となっている。何それ?

空間系ギターの響きから、突然脳に入ってくるようなヴォーカル?コーラス?が本当に気持ち良すぎる。どこをリイシューしたのか全く分からん。

彼らのバンドがコロナ禍で出した時のアルバムはとても暗かった覚えがあるんですけど、リイシュー版(初期の頃のセルフカバーみたいな奴)というのも相まって、明るくて陽気さも感じられて良いですね。

書斎に一つおいてあるジジイ専用だった椅子に座りながら、煙草を吸い、夕焼けを眺めている時に聴きたい音楽です。(僕はたばこ吸いませんが)

『ゾンビ』

youtu.be わっはー We're ゾンビ ゾンビ

DECO*27はなぜこんな二十代ぐらいのネット配信者が歌いたくなるような曲を量産する事ができるんだ...最近だと「チェンソーマン」とかもそうですが、アホなゾンビって可愛いですよね。

今からめちゃくちゃ嫌なこと言うんですけど、人間が何かに対して(可愛い)という感情を持つとき、ある特定の分野で卑下していたり、所有欲が出るからだと思っています。これは言い方が悪すぎましたね。”守ってあげたい”という庇護欲と言えばよいでしょうか。

そうなった時のゾンビ娘という存在は、萌えイベントの大量発生機となるんですよ。ゾンビは世界に彼女一人しかいない、しかもアホで簡単に死なない。誰でも政府の実験代にされる未来が予測できますよね。

(彼女を救えるのは...俺だけだ!!?)

そうして料理中に彼女の右半身が燃えたり、無くした右眼がベッドの隙間に落ちていたり、隣人から悪臭の苦情が来たり、それを気にした彼女がしれっと香水を使っている所を目撃する日常イベントを乗り越えながら、最後は2人ゾンビになってハッピーエンドです。

『ウタカタララバイ』

youtu.be ONE PIECE FILM RED、良かった。うっせぇわの時に逆張りでadoを批判しないで本当に良かった。(してたら悪い訳ではないですが)

ネタバレになるので詳しくは言えないですが、ウタカタララバイが好きです。

リアルなんて要らないよね? 後で気付いたってもう遅い

入れてあげないんだから 手間取らせないで Be my good good good boys & girls

良いですよね。ウタという名前と泡沫をかけているのがお洒落。

『シャル・ウィ・ダンス?』

youtu.be

アニソン構成の曲なのに、館のゴシック感と不穏な感じ、不気味さを絶妙なバランスで取り入れててよい。シャドーハウスの世界観にピッタリすぎる。

歌詞もシャドーハウスのシャドーと生き人形との関係性を、人生においての感情のちぐはぐさと上手く絡めている。

一期のED『ないない』の頃から思ってたけど、ReoNaの声とシャドーハウスは親和性が高い。

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最近良かった曲(番外編、ルームシェア仲間の友人)

 

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youtu.be

わかる。誰かが自分の前から去ってしまっても、永遠に残り続けてくれるのが音楽の良さなので、九十九佐命がフューチャーベースしてくれて彼もさぞ満足な事でしょう。

彼とは音楽の趣味だけは奇跡的に合うので、ある程度ジャンルがかぶる者かと思っていましたが、やっぱ一緒に住んでいても聴く音楽は多少ずれるもんなんですね。

こういうKawaiiの文化ってめちゃくちゃサブカルなので、色々調べようとしても英語なんかを使って試行錯誤する事になるので探している途中にめんどくさくなっちゃいますよね。

ちなみに僕のオススメはこれです。

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「痛かったら手を挙げなきゃいけない」

という歯医者のルールで強制的にノリノリにさせてくる曲ですが、歯医者にトラウマがある人は聴くだけで鳥肌が止まらなくなりそうな所が良いですね。