『蛙化現象と【かげきしょうじょ!!】八話』
”蛙化現象”という言葉がYouTubeでの炎上で話題になりましたね。
どういう炎上だ?と気になった皆さん、検索しなくて良いです。異性嫌悪を煽るタイプの嫌なゴシップだから炎上しただけです。インターネットでは、異性を叩く話題が地獄の業火のように燃え続けているんだ。関われば関わるほど不幸になります。
それはそれとして、他人に理想を投影してしまうのは人間なら誰しも一度はあると思います。
『かげきしょうじょ‼』というアニメでは「紅華歌劇団」(宝塚歌劇団みたいな感じ)に入ることを目標としたキャラクター達の希望や葛藤、日々の奮闘が描かれます。
第八幕では、主要キャラクターの一人である星野薫の過去、一夏の恋が描かれます。
この回が本当に良い。
彼女のおばあちゃんは人気の春組娘役トップスターだったこともあり、おばあちゃんと比べられながらも、何度も受験に失敗し続け、受験ギリギリの18歳になった薫。周りからも奇異の目にさらされています。「紅華」に入学する難しさを誰よりも知っている為、それをまだ言葉にはできない。
そんな中、おばあちゃんのお見舞いの為に乗る病院までのバス停で、自分と似た境遇を持つ”メジャーリーガーの弟”としてしか見られていない野球部の辻くんと偶然出会います。
自分たちの夢や悩みを語り合いながら徐々に関係が深まる二人。
自分より早く合格した後輩に見せしめにあい、今年が最後の受験だという事に焦る薫。
おばあちゃんが退院し、バス停に向かう理由もなくなる。さらに退院したおばあちゃんから「いつでも道を変えても良い、やりたい事をやりなさい」という言葉をかけられ、薫は紅華に入るという夢の為に捧げてきた人生で、初めて異性と夏祭りに行きます。
薫「もしかして元気ない?」
辻「最近はずっと調子よかったんだけど、やっぱり試合に出るチャンスないっぽくて、野球やってて意味あんのかなーって。子どもの頃から兄貴と一緒に野球やってきて、兄貴に才能があったから同じような事求められて、その期待に応えなきゃって、当たり前のように野球部入って、そうやって無理し続けた甲斐はあったのかなって。そう思う事ってあるだろ?」
薫「... …」
薫「なんでみんな、そんな事言うの。違うよ、私は違う。プレッシャーに押しつぶされそうになるけど、私は自分の意志で決めたの!無理なんて一ミリもしてない!これは私が選んだ道よ。私がなりたいの!最後まで絶対諦めない、私は、なにがなんでも紅華に入学するの!」
彼女は弱い心をはねのける様に、決意を込めた声で言う薫。そう、ここで彼女は悩みを全て打ち明けてきた辻くんに同調しない。
蛙化現象とは少し違いますが、彼女は彼を通して自分自身の弱さに気付く。人間なら誰しもが持っている感情、自分にも他人にも厳しく、同期の中でも人一倍プロ意識の高い星野薫が見せた、ひと夏の、ほんの少しの綻び。
決して傷の舐め合いがしたかったわけではない。
薫が惹かれたのは兄貴と比べられる事なんて意に介さず夢に向かって努力する野球少年であり、それは自分の理想の姿でもあったのです。
才能が無いのはわかっている、ここでやめれば楽になる事もわかっている、それでも”自分で決めた道だから”。彼女は初めて自分の夢を言葉にするのです。
『かげきしょうじょ‼』は原作もとても素晴らしいのですが、とにかくアニメのこの回が大好きなんですよね。夢に向かって努力する事は、何よりも孤独で、だからこそ美しい。
文句なしにオススメできるアニメです。
「私バカだ、一瞬でも普通のJKが羨ましいと思ってしまった」
『HUNTER×HUNTER』
ゼブラックというマンガアプリで無料になっていたので久しぶりにハンターハンターを全巻読みました。
僕は一番キメラアント編が好きですが、ここではあえてヨークシンの話をしたいと思います。最近ジャンプ本誌でも幻影旅団が深く掘り下げられていましたからね。
ヨークシン編での幻影旅団と言えば、アウトローの頂点として欲しい物があれば暴力で奪っていく自分勝手極まりない輩たち、という描かれ方をしていました。邪魔になるならヤクザも殺すし、罪のない人間の被害も厭わない。というより身内意外に大して興味がない。
あいつらは力を持ちすぎたヤンキーなんですよね。ヤクザや悪の組織というより、海賊とかに近い。一応曲がりなりにも組織という形をとっているけど、組織化して動く事なんてしないし、内部のルールもガバガバで最低限しかない。社会からあぶれた力の強い者がつるんでいるだけ。こういう奴らが一番タチが悪い。
でもだからこそパクノダは組織より情を優先してクロロを助けようとしたし、ノブナガは団長のルールを無視して鎖野郎を始末しようとする。
蜘蛛に”役割”はあっても、上下関係はない。
ヤクザって結局”組織”で、どうしても社会性が必要になってくるものなんですよ。だからこそヒンリギさんが本物のアウトローである旅団にカリスマ性を感じて箱推しになるのも必然的な流れだと思います。
しかしその見方も、過去編でより深みが加えられます。
過去編では絶望と不条理が蔓延する流星街という街で、クロロという優しい少年が悪党として生きることになるまでの過程がむごったらしく描かれていきます。綺麗事だけでは救われない命があること、蜘蛛という名前は悪党が罠にかかるまで巣を張り待ち続ける意味だったのですね。
「我々は何ものも拒まないだから我々から何も奪うな」
が、法の支配から逃れた無法者達の宣戦布告ではなく、不条理の傍らで生きた人々の悲痛な叫びだったという事を理解させられる過去編でした。
ちなみに僕は、クロロが一番好きです。
『自分の為だけに生きるのは きっといつか限界がくる』
この台詞は、『呪術廻戦』二十巻で烏鷺亨子に対して乙骨が言ったセリフです。
これに対して烏鷺は「黙れ!”誰かの為に生きろ”、”何者にも成る必要はない”、そうやって嘯くのは、いつだって何者かに成った者だ!!」と一蹴します。姉貴、かっこいいっス。
良いですよね。一度目の人生で他者の為に生き、他者の為に死んだ。
そんな事実を後悔している烏鷺は、千年前の呪術師なので圧倒的な自己である両面宿儺を知っている。
正に、宿儺のように”何者か”になる為に受肉した烏鷺亨子の一番の精神的地雷を初対面で無自覚に、的確に踏みぬく乙骨がすごい。
ところで皆さんは、自分の為だけに生きるのは限界がくると思いますか?
僕は思っている。
どんなに成功した人間でも最終的には自分の周りの人間の為に何かをしたくなるものです。人は私利私欲の為だけには生きられない。
なぜなら寂しいからである。
孤独に勝てる人間はいません。Tier1。トップメタ。優先度最強。
人がなぜこんなにも他者を求めてしまうのか、これは神が人間が自分勝手に生きない為に作った枷、”呪い”のようなものだと考えるしかないのか?少なくとも自分の中ではそれが一番おさまりが良い。
しかし、孤独が嫌だから誰かの為に生きるというのはある種、エゴとも言えます。
誰かの為に行った行為のはずが、見返りを求めてしまう事だってあし、寂しさを紛らわすために尽くしたのに、寂しさを埋めてくれないのなら何の意味もない。
言い換えるならば、自分の為に、誰かを助ける。そう捉えることもできますよね。
つまり誰かの為に生きる事だって限界があるわけで、そういう意味では人は、”自分の為だけ”にしか生きられないとも言えちゃうか。あーあ。
僕はエゴに自覚的な人間が好きです。なんでもそうですが、無自覚な人間が一番怖い。当たり前を当たり前だと信じることは才能だとも思いますが、幼少期からインターネットの海を彷徨って猜疑心を植え付けられた僕のような人間は、孤独を恐れながらも、人間に期待する事も出来ない、どっちつかずのピエロとして生きていくことしか出来ないのです。